コラム

[PLAYER’S STORY] 山本 宗太朗 Sotaro Yamamoto

J3昇格を目指し、奈良の地で戦う27人の選手たち。
「何故、サッカーなのか」「何故、奈良なのか」選手それぞれの“物語”に迫る。
(ホームゲーム週に更新予定)

#27 山本 宗太朗

サッカー漬けの毎日を過ごす中で磨き続けてきた技術。
大型MFから繰り出される繊細なテクニックの誕生秘話に迫る。

オウンゴールを連発
父がサッカーのコーチをしていたことが始めたきっかけでした。僕には兄が二人いるのですが、二人ともサッカーをしていたので、サッカー一家でしたね。幼稚園から始めたのですが、どっちのゴールに決めたら良いのか分からなくて(笑)。オウンゴール連発しているような子供でした。

九州を制覇。顧問は担任の先生。
小学校4年生からは学校のサッカー部に所属しました。大会にも出場して、5年生の時にはクラブチームもある中で九州で1位に。休み時間も放課後も、ずっと同じメンバーでサッカーをして、教えてくれるのは担任の先生で。家族といる時間よりも、サッカー部で過ごした時間の方が長かったように感じます。

毎日片道40kmを往復
中学校はロアッソ熊本のジュニアユースに。家と練習場所が遠くて、毎日学校終わりに親に高速道路を使って送ってもらっていました。帰りの車でご飯と食べて、帰ったらすぐ寝る生活でしたね。親も大変だったと思います。
当時の監督がまた自由な人で。僕がスパイクを忘れた時、「ブラジルの子は裸足でもやっているよ」と言って、中学校の真っ白い靴で練習したこともありました(笑)。自由を尊重してくれる先生だったのですが、県で一番強かったので、サッカー面でも成長できたと思います。

己と向き合った高校時代
大津高校では、プロになる人が多い環境だったので、良い刺激を受けた3年間でした。「100分間トレーニング」という練習方法が取り入れられていて、練習をした後に自分で課題を見つけて練習するという方法です。自分の課題と向き合うので人として学べる良い環境だったと思います。僕は当時もMFでしたが、点も取りたかったので、シュートの練習をしたり、ボールを吊り下げてヘディングしたり、走ったり。そんな練習をしていました。

希望と絶望
高校を卒業する時に、J1でサッカーがしたかったので、成長するために大学へ行こうと決めていました。しかし関西大学に入学してからは想像していた大学生活と真逆でした。1年生の時にグロインペインになってしまい、約2年離脱。筋トレもだめ、練習場に行っては見ているだけ。全くサッカーをしませんでした。しようと思えば出来ましたがまたサッカーがやりたかったので耐えましたね。辛かったです。
ようやく回復してきて3年の時に復帰をしたら、次は肺に穴が空いて。またかと思いました。なので僕は大学では1年くらいしかサッカーができなかったんです。思い描いていた大学生活とは違ってしまいましたが、辛い時に家族とか友人が支えてくれたので、サッカーが出来ないからこそ気付けたこともありました。

布施とは大学からの仲
ㅤ奈良クラブのことは、大学の時に練習試合をしていましたし、大学の先輩の周士くん(28番布施周士)が所属していたので知っていました。周士くんとはよくご飯に行ったりして、今でも仲良いですよ。

シーズン後半戦に向けて
ㅤ去年は全然試合に出れませんでした。今年になってから試合に出れるようになって良い経験を積めていると思います。まずは言われたことをやって、その上で自分で考えるようになりました。これは良い傾向だと思っています。

さまよえる大型技工士
ㅤ”大型技工士”だけだと既に完成している感じがして。僕はまだ過程にいると思うので、もっと上に行くためにという願いも込めて”さまよえる”をつけました。自分が入らせてもらったクラブなので、クラブに関わる方に喜んでいただけるようにしたいですね。応援してくれている家族はもちろん、奈良の皆さんのために頑張ります。